ブラジル南部地域への入植は、初めは北東部と同じ形で行われていた。 しかし、天然
資源が豊かな南部は、異なった形で発達した。 17世紀後半に、ミナスジェライス州で
金が見つかると、大勢の人達がこの地方に定住するようになった。 これらの人々は、
プランテーションを開いたり、作物を輸出したりせず、店や小農園を経営して、金鉱を探す
人々に商品やサービスを提供した。

スペインは、政府の代理人に鉱物資源の採掘を管理させたが、ポルトガルは、冒険心に
富んだ事業主に、採掘を任せていた。 そうした事業主の中には、ブラジル北東部の
人々も混じっていた。 西インド諸島の砂糖が安いために、国際競争に敗れ、サトウキビ
プランテーションを手放した人々だった。

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現在、サンパウロと言われている場所には、あらゆる人々がが集まっていた。 17世紀を
通して、彼等は、しばしば何千人という規模で、バンディアと呼ばれる探検隊を組織し、
新しい資源を求めて、ブラジル内陸部を探検した。 これらの人々は、バンデランテと
呼ばれ、勇敢なパイオニアとして尊敬されている。

ほとんどの人は、金やダイヤモンドのような鉱物の採掘のために、組織された。 このような
作業は、ひとつの場所で何年間も続くことが良くあったので、結果的にバンデランテ達は、
沢山の村や町を建設した。 彼等の活動のお陰で、ポルトガルの支配は、法王の決めた
境界線を遥かに超えることになったが、1750年のマドリード条約で、スペインは、現在の
ブラジルにほぼ相当する地域でのポルトガルの主張を正式に認めた。

【ポルトガルの支配】
ブラジル植民地に対するポルトガルの支配は、中南米の多くの地域を支配するスペインの
統治とは、まるで異なっていた。ポルトガル政府は、カピタンと呼ばれる統治者に、地元の
出来事を処理する広い権限を与えた。 これは、中央集権的なスペイン植民地とは、対象的
だった。 独立に向けたブラジルの歩みも、スペイン植民地とは異なっていた。 ブラジル
には、多くのスペイン植民地のような独立のための長い戦争は必要なかった。 ブラジルを
独立に導いた一連の出来事の始まりは、1807年に起きた、ナポレオンのポルトガル侵略
だった。

ポルトガル王はジョアン6世は、王室をそっくりブラジルに移し、自分かその子孫が、
ポルトガル王として、国に戻れる日が来ることを待つことにした。 やがてナポレオンは
失脚し、1821年、ジョアン6世は、ポルトガルに戻った。 国王は、まだ20歳を過ぎた
ばかりの王子ドン・ペドロをブラジルの執政に任命し、時が来たら独立を宣言するように
と言い残した。

翌1822年9月7日、ドン・ペドロは、国民の要求に応えて、独立を宣言した。 1ヶ月後、
彼は、ブラジルの立憲皇帝、終身守護色ペドロ1世となり、ブラジルは、ポルトガル王と
血の繋がった皇帝を戴く独立王国となった。 しかし、独裁的だったペドロ1世は、ブラジル
国民に人気がなかった。 フランス革命や、アメリカの独立戦争や、スペイン領南アメリカ
各地での独立戦争に啓蒙された国民は、旧世界の君主の独裁を嫌い、自分達の運命を
自分達の手で決めたいと願うようになった。 不満の高まりの中、1831年にペドロ1世は
退位し、ポルトガルに帰って行った。 在位期間は9年間であった。 父親がそうしたように、
彼は、息子のドン・ペドロ(ペドロ・デ・アルカンタラ)にその地位を譲った。 息子のドン・
ペドロは、まだ6歳だった。 それからの9年間、ブラジル帝国は、3人の執政によって
統治されたが、その政治は、全体としては、国民の意志を反映したものだった。 1840年、
15歳になったドン・ペドロは、ブラジル皇帝として即位した。 初めてのブラジル生まれの
元首であった。

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【ペドロ2世】(1840年~1889年)
ペドロ2世は、50年近くも安定した統治を続けた。 中南米植民地の支配者で、彼ほど
国民から敬愛され、尊敬されている人はいない。 質素を好み、気取りのないその人柄は、
あらゆる階層の国民から支持された。 ペドロ2世は、知的好奇心が強く、科学や文学の
学会を創設した。 アメリカの詩人ロングフェローをはじめ、世界的な思想家や文学者と
熱心に文通し、スウェーデンの北極探検家ノルデンシェルドとは、気象観測情報を交換
した。 トロイの遺跡の発見者であるドイツのシュリーマンとは、激しい論争をしながら、
暖かい友情を育んだ。

ペドロ2世は、エジプト学に熱心で、そのためにアラビア語やペルシャ語を学び、バビロニア
の象形文字も研究した。 また、アマゾン盆地を年度も訪れるうちに、インディオのトゥピー
族や、グアラニー族の言葉を覚え、日常会話が出来るようになった。

ペドロ2世は、長い在位期間の間に、ブラジルを国際社会で安定したものとした。 国の
政策は継続的で安定したものとなり、外国の投資家は、安心してブラジルの資源開発に
投資した。ブラジルの工業と商業は、ペドロ2世の政治とあいまって、大いに発展した。
彼は、鉄道建設を進め、電話の架設工事への投資を主張した。 電話は、皇帝の親しい
友人であるグラハム・ベルの発明であった。

1856年にパラグアイ戦争が起きると、ブラジルは、アルゼンチン、ウルグアイと共に3国
同盟を結び、パラグアイに対抗した。 戦争は、1870年に終わり、同盟国側が勝利した。
しかし、この紛争は、高くついた。 戦費の負担に対する国民の不満が、やがて主君性が
終わる一因となった。 しかし、より大きく影響したのは、奴隷制の問題だった。 ペドロ
2世の要請で、ブラジルは、1851年に奴隷貿易を禁止する法律を決めた。 しかし、この
法律は、奴隷の輸入を禁止するだけだったので、ブラジル人は、まだ奴隷を私有していた。

奴隷制度の完全な廃止は、さまざまに議論されていたが、経済力のある有力者の多くは、
これに反対だったのだ。 奴隷制度を支持する人々からの働き掛けを逃れるために、
ペドロ2世は、ヨーロッパへ休暇旅行に出掛け、その間は、娘のイザベラ王女に皇帝の
代理を命じた。 1888年、イザベラ王女は、奴隷廃止例に署名した。

かつての奴隷所有者の反発と軍部の不満が高まる中で、1889年、ペドロ2世は退位した。
皇帝の地位にあった時から、ペドロ2世は、ブラジルをアメリカ合衆国のような民主共和制
による自治の国にしようと考えていたため、やがては、退位を求められることを覚悟で、
民主的な政治勢力を励まし続けた。 ペドロ2世の統治が終わる時が来ても、血生臭い
事件は起きなかった。 それどころか、貧しい者も高い地位にある者も、涙を流して敬愛
する皇帝の亡命を見送った。

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