言語の杜で迷ったら

マルチリンガル通訳・翻訳者によるブログ。
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    ◎日和幼稚園訴訟(下)悲劇の伝承

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    <現場で語り部に>
    東日本大震災の津波で子どもを亡くした私立日和幼稚園(宮城県石巻市、休園中)の
    遺族4人が9月30日、園の周辺で、修学旅行で訪れた香川県丸亀高の2年生約90人を
    案内した。
     
    園児を乗せた送迎バスが炎上した現場付近にたたずむ。 遺族にとって、つらいけれど
    大切な場所だ。 次女明日香ちゃん=当時(6)=を失った佐々木めぐみさん(36)が、
    わが子の遺体を見つけた際の様子を静かに振り返った。
     
    「体を触るとポロポロと崩れてしまい、抱きしめることができませんでした。 もっと長生き
    してほしかった。 皆さんは家に帰ったら『ただいま』と言ってください」
     
    耳を傾けていた丸亀高の生徒が手で涙を拭った。 小中学生のきょうだい2人がいる
    大麻悠香さん(17)は「胸が苦しくなったけれど、遺族の話を聞いて良かった」としみじみ思う。
    「香川県は南海トラフ巨大地震の被害が想定されている。 ちゃんと避難訓練をする
    必要があると痛感した」。 教訓を持ち帰り生かしたいという。



    遺族は訴訟の和解から5カ月後のことし5月、男鹿市の海岸へ足を運んだ。 その地では
    1983年5月、日本海中部地震の津波で、遠足中の旧合川南小(北秋田市)の児童
    13人が犠牲になった。
     
    佐々木さんの夫純さん(36)が、初対面した日本海中部地震の遺族に自分の苦しみを
    重ねて尋ねた。 「32年間、どのようにして子どもたちの死と向き合ってきたのかが知りたい」
     
    小学4年だった長女=当時(9)=を失った福岡史恵さん(65)が答える。 「『ただいま』と
    いう言葉がないまま、32年前の姿のままに供養しています」。 悲劇を語り継いでいく
    ことが、風化の防止につながるとも助言した。

    <苦悩抱えながら>
    震災から間もなく4年9カ月。 早世した園児のきょうだいは、少しずつ成長している。
    西城春音ちゃん=当時(6)=の仏壇がある石巻市の自宅の座敷で11月中旬、姉の楓音
    (かざね)さん(13)が震災後初めて、妹と一緒に遊んでいた形見のおもちゃを広げた。
    女児に人気のリカちゃんの家とシルバニアファミリー。 弟の靖汰君(7)、春汰ちゃん(2)が
    夢中になって遊んだ。

    母江津子さん(40)は、何も言わず黙って見守っていた。 楓音さんの気持ちを想像してみる。
    「妹が亡くなり、一人でどうやって遊んでいいのか、分からなくなっていたと思う。 でも
    中学生になり、抱え切れなかった思いを少し抱えられるようになったのかもしれない」

    江津子さんも、愛するわが子を失った悲しみを抱えながら、命の大切さを伝えていくつもりだ。

    出典:河北新報

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~

    >>【津波訴訟和解1年】「心から」の思い見えず

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    ◎日和幼稚園訴訟(上)謝罪の意味

    東日本大震災の津波で園児5人が亡くなった宮城県石巻市の私立日和幼稚園
    (休園中)の訴訟で、園児4人の遺族側と園側が和解してから2015年12月3日で
    1年となる。 園側からいまだに直接的な謝罪はなく、遺族側は一層、苦悩を深める。
    遺族らは園側に血の通った対話を求める一方、語り部として命の大切さを伝える。
    和解後の遺族の日々を追った。

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    <拒否された手紙>
    長女愛梨ちゃん=当時(6)=を失った佐藤美香さん(40)の自宅に11月中旬、
    園側の関係者に出した手紙が返送されてきた。

    未開封の封筒には、直筆の文字があった。
    「受取拒否」

    佐藤さんがしたためた手紙はA4判1枚。 「園側が法的責任を認め、心からの
    謝罪をする」という訴訟の協議内容を胸に納め、和解を決心したいきさつを記した。
    和解成立後、園側から連絡がなく、手紙を送らざるを得なかった心境もつづった。

    佐藤さんは感情を押し殺して語る。 「法的なしがらみはありません。 園側には
    一人の人間として、私たちと向き合ってほしいだけです。 せめて、未来を奪われた
    愛梨たちに真実を伝え、心から謝ってほしい」

    2014年12月3日、仙台高裁。 津波犠牲者をめぐり、初の賠償命令が出た訴訟は
    提訴から3年4カ月で幕を閉じた。

    和解調書は「園側は被災園児らと遺族側を含む家族に心から謝罪する」との文言を
    明記する。 園側は「司法の勧告を厳粛に受け止め、幼くして失われた尊い命に
    思いを致し、冥福を祈る」との談話を出した。

    今年3月と夏、一部の遺族宅に花が郵送された。 差出人は園側の関係者。
    手紙や文書は添えられておらず、遺族は真意を測りかねた。



    <踏み出せぬまま>
    遺族は9月、文部科学省の学校事故対応に関する有識者会議のヒアリングに臨んだ。
    次女春音ちゃん=当時(6)=を亡くした西城靖之さん(47)が研究者ら委10人に
    訴えた。

    「判決では園側の謝罪を得られないだろうと考えて和解を選んだ。 裁判の出口は
    出たけれど、そこから一歩を踏み出せずにいる」。 いまだに心の整理がつかない
    真情を吐露した。

    被告が原告の遺族に面会し、直接謝罪する。 日和幼稚園の遺族が対話の一歩
    として望むことが、震災関連の犠牲者をめぐる別の訴訟では実現した。 その遺族は
    匿名を条件に胸の内を明かす。

    「訴訟で一番求めていたのは謝罪です。 亡くなった家族は帰ってこないけれど、
    位牌(いはい)の前で手を合わせ、頭を下げてもらったことには納得している。 人として
    最低限のことはしてもらいました」

    民事訴訟の和解に詳しい東北の元裁判官は「日和幼稚園のケースは気持ちの面で
    解決を望む遺族と、法的な問題を解決する裁判との間に大きな落差がある」と指摘する。

    「心からの謝罪」は目に見えない。 どうすれば、それがなされたといえるのか。
    元裁判官は「捉え方は難しい。 和解項目は任意であって強制執行はできない。
    園側が亡くなった園児や遺族とどう向き合うかが社会的、倫理的に問われている」と話す。

    [日和幼稚園訴訟]東日本大震災の津波で亡くなった園児4人の遺族が2011年8月、
    園側は安全配慮義務を怠ったとして、園側に損害賠償を求め仙台地裁に提訴。 地裁は
    2013年9月、法的な責任を認め、園側に賠償を命令。 園側が仙台高裁に控訴し、
    控訴審では園側が和解金計6,000万円を支払うことなどで和解した。 訴えによると、
    園児を乗せた送迎バスは2011年3月11日午後3時ごろ、園のある高台から海側の
    低地に向けて出発。 約45分後に津波に巻き込まれ、提訴した遺族の子ども4人を含む
    園児5人が死亡した。

    出典:河北新報

    >>【日和幼稚園】~救えなかった命~

    >>津波訴訟和解1年>わが子の命思い語る

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    常磐山元自動車学校(宮城県山元町)に通う当時18~19歳の教習生25人らの命を
    奪った東日本大震災の大津波。 『わが子がなぜ』。 無念の思いを胸に学校を
    提訴して4年7カ月、教習生25人の遺族と学校との間で和解が成立した。
     
    『不十分な点はあるが、和解せざるを得ない』。 仙台市内で記者会見した遺族たちは、
    会見場に教習生の遺影を丁寧に並べた上で複雑な胸中を明かした。

    遺族の多くが望んだ学校経営者による『誠意ある謝罪』は、その文言が法廷で裁判長に
    よって読み上げられただけだった。

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    長女悠さん=当時(18)=を亡くした高橋範雄さん(57)は『口頭での陳謝が実現しなかった
    のは非常に残念。 ただ、判決では謝罪自体を得られなかっただろう』と自らに言い
    聞かせるように語った。

    長男公紀さん=同=を失った岩沼市の佐野美智子さん(55)は『和解内容は学校の
    不備を指摘し、教習生に何ら落ち度がないことを認めてくれた。 ずっと求めていた
    答えが得られた』と声を震わせた。

    悲劇を繰り返さないため、事件の教訓化も切望した。 長男佳祐さん=当時(19)=が
    犠牲になり、遺族会代表を務めた福島県新地町の寺島浩文さん(53)は『子どもたちの
    死を無駄にしないでほしい』と言い続けてきた。

    和解を受け『家庭をはじめ企業、学校、公共施設の長は危機管理意識を持ち、防災に
    取り組むことを強く願う』との談話を出した。

    出典:河北新報

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    東日本大震災で学校管理下の児童74人と教職員10人が犠牲となった宮城県石巻市立
    大川小学校の惨事を巡り、23人の児童の遺族19家族が市や県に国賠請求を求めた
    裁判は、2016年1月22日、仙台地裁(高宮健二裁判長)で口頭弁論が開かれ、同校の
    当時の校長ら5人の証人尋問を4月中に行うことが決まった。 引き渡し時に校庭の様子を
    目撃した保護者が証人として採用され、教職員で唯一、学校現場から生還したA教諭の
    証人申請については引き続き「留保」となり、5人の尋問の後、裁判所が採否を決める。

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    この裁判は、子どもたちの遺族が同校に津波が襲来するまでの約50分間、児童らが
    校庭に居続けたことについて、市側に詳細な経緯と原因を明らかにするよう求めて提訴
    したもの。 これまでの5年間、未だ明らかにされてこなかった事実を目撃者らから得て、
    真相解明に近づくことができるか。 遺族は司法の場に期待している。



    今回、新たに原告側から証人申請され、採用が決まったのは、地震後、学校に当時小学
    6年の娘を迎えに行った保護者。 採用された5人の中でも、津波に襲われる直前に、
    校庭での児童引き渡しの現場に立ち立った唯一の目撃者だ。

    原告側の吉岡和弘弁護士(仙台弁護士会)によると、この保護者は、地元民放ラジオの
    津波情報を聞きながら学校に娘を引き取りに向かい、14時52分頃から15時10分頃まで
    校庭にいた。 この間、小学6年生の子どもたちが「山に逃げよう」と言って、教諭と口論
    している光景を目撃。 ふだんは泣かない娘が泣いている異常な状態を見て、「津波が
    来ますよ」と担任に伝えると、「お母さん、落ち着いてください」などと、たしなめられたという。

    また、娘を連れて帰る途中、学校とも深いつながりのあった地域住民が「津波が来る」と
    言って学校に駆けつけてきた場面にも遭遇したという。

    証人尋問は、2日に分けて行われる。

    1日目の尋問は、震災当時は別の学校にいたが、かつて同小の教頭時代に災害対応
    マニュアルの改訂などに携わり、震災後に指導主事として保護者や住民などからの聞き
    取り調査にも携わった現校長と、震災当時の校長の2人。

    2日目は、地震直後に広報車で2度にわたり大川小前を通った市役所の支所職員のほか、
    前出の校庭の様子を目撃した保護者と、「山さ逃げよう」と主張したとされる当時6年の
    男児の父親で原告団長の今野浩行さんの計3人が証言する。



    また、原告が申請していた、震災当時、同市内の中学教諭であり、小学6年の娘を亡くした
    遺族でもある母親の証人尋問については、採用されなかった。

    原告の遺族たちは、震災直後から「目の前に裏山があるのに、なぜ避難できなかった
    のか?」「広報車の“河川に近づかないでください”という呼びかけを認識している筈なのに、
    なぜ避難先に選んだのが河川のすぐそば(堤防上の三角地帯)だったのか?」などの
    観点から、真実の解明を求め、これまで20人くらいから聴き取りをしてきた。

    現場で児童らと共にいて唯一生還した当時の教務主任だった男性教諭については、
    地裁は引き続き「留保」とした。 この教諭については、遺族たちから証人として採用する
    よう裁判所に対して強い要請が出されているものの、主治医が、体調や精神状態を悪化
    させると尋問に反対している。 裁判所側は、他の証言を聞いた上で、さらに教務主任の
    証言が必要かを判断する方針だ。

    一方、被告側の準備書面によれば、市は、当時、校庭から移動を始めた児童らに
    向かって、教頭が、「津波が来ていますので皆さん急いでください」と発言したことを、
    <「津波を目撃した」事実を裏付けるものではない>とし、教職員が津波を予見できていた
    とする原告側の主張に反論した。 また県も、高知県でサッカーの試合中に落雷で
    亡くなった部活動事故の平成18年の最高裁判決や、平成27年の宮城県山元町立
    東保育所の高裁判決(上告中)を引き合いに出し、東日本大震災の特殊性を踏まえた上で
    予見可能性や予見義務の判断すべきとし、「学校の校庭から避難することを選択する
    ことが法的に義務づけられる程度の危険が迫っていることを予見するのは、尚のこと
    困難であったとみるべきである」と主張した。

    今後、A教諭の証人申請が採用されない場合は、6月頃に結審し、夏頃をめどに判決が
    下される見込みだ。

    出典:Haffpost 

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    宮城県石巻市は2016年4月14日、東日本大震災の犠牲者とみられる身元不明の
    遺骨が入った34の骨箱を、石巻霊園(同市大瓜)のコンテナ仮安置所から3月に
    新設した近くの石巻第2霊園の納骨堂へ移した。

    仮安置所と納骨堂の双方で法要があり、市職員や僧侶、葬祭業者ら約40人が出席。
    参列者は僧侶の読経が響く中で焼香し、犠牲者の冥福を祈り手を合わせた。

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    仮安置所は2011年12月に設置された。 隣接するプレハブに慰霊スペースを設け、
    行方不明者の家族らが供養に訪れた。 プレハブは今後も残し、納骨堂脇にも
    焼香台を設置した。

    一方、市内では南浜地区に整備する復興祈念公園への納骨を望む声もある。
    17カ寺でつくる石巻仏教会は14日、市役所で記者会見し、桂田文隆会長が
    「多くの人が訪れて心を寄せる場所に安置するべきだ」と署名活動に協力を呼び掛けた。
     
    亀山紘市長は「丁寧に安置することが犠牲者への務めだと思う。 祈念公園へという
    意見も真摯(しんし)に受け止め検討したい」と話した。

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